2015年8月で販売終了になった余市12年は、余市蒸留所で造られたシングルモルトウイスキーです。ウイスキーを造る上で一番味を左右する工程が蒸留です。ウイスキーの国際的コンペティションであう「ワールド・ウイスキー・アワード(WWA)」においてシングルモルト部門で最優秀賞に選ばれている「余市1987」を瓶詰め後の濁りやオリの発生を防ぐための冷却やろ過をしない「ノンチルフィルタード」にすることでウイスキーが持つ本来の豊かな香りや複雑な味わいを楽しめます。
蒸留の際のポットスチルの加熱には2つの方法があり、直火加熱と間接加熱に分けられます。間接加熱はスチルポットの中にある銅やステンレススチル製のコイル管に、ボイラーで作った蒸気を送り込んで加熱する方法です。蒸気で加熱するとムラがなく、穏やかに加熱され、温度調節もバルブの開け閉めだけで手軽に行えるという利点があります。
一方、直火加熱は古くから行われている方法で、現在ではほとんど行われていませんが、余市蒸留所ではいまだに石炭による直火加熱を行っています。これは一番温度調節が難しいとされるので、世界を見回しても使っている蒸留所はほとんどないでしょう。温度調節は炉に入れる石炭の量を調整するか、炉の扉を開けて火力を鎮めるしかありません。したがって、火力調整には職人の技と経験が必要になります。
長年この2つの加熱方法では異なる個性を持つ原酒が造られると考えられていて、創業者の竹鶴政孝氏も同じでした。現在では加熱方法ではなく、ポットスチルに加わる熱の違いが味の違いを生み出すと考えられています。加わる熱が低温の場合は蒸留速度が遅くなり、軽い原酒ができ、高温の場合は蒸留速度が早くなり重厚な原酒になるということです。
余市蒸留所は直火加熱のため重厚な原酒となり、加えてポットスチルの形も重厚な味わいになるといわれるストレートヘッド型なので、余市12年は重厚な味わいのウイスキーとなります。また、ピートで燻されたモルトの強いスモーキーさが特徴です。さらに、爽やかな青リンゴにレーズンやプラムなどの熟したフルーツ香が加わり、オーク樽で熟成させたコクはカカオやナッツを思わせます。味わいはやはり重厚で酸味もあり、芳醇な香りが飲み飽きることがないでしょう。
ニッカウヰスキー人気で原酒の在庫が危ぶまれたため、シングルモルト余市はノンエイジの新製品に生まれ変わっています。
生産本数1350本限定の希少なウイスキーです
竹鶴政孝氏が大学の醸造科に通っていた頃、洋酒に興味が湧いたので洋酒メーカーの摂津酒造に入社しました。
この時代のウイスキー含む洋酒は模造品のみで本物はありませんでした。
摂津酒造の阿部喜兵衛社長は本物のウイスキーを造って売ろうと思い、政孝氏をスコッチウイスキーの本場、スコットランドのグラスコー大学に留学させます。
政孝氏は大学や図書館での勉強と蒸留所での実地研修を重ね、ウイスキーの造り方を収めた2冊のノートと現地で駆け落ち同然に結婚した妻・リタを連れて帰国しました。しかし、日本は戦後の大不況中で蒸留所建設計画は頓挫します。
ウイスキー以外では役に立てないと思い、摂津酒造を後にした政孝氏はしばらくブラブラしていました。その頃、現サントリーの創業者・鳥井信治郎氏も国産ウイスキーを造りたいという考えを持っていました。技術者はスコットランドから呼び寄せようと思っていましたが、政孝氏の噂を聞きつけて一緒にやろうと誘いに来ます。
政孝氏は10年契約を結んで山崎蒸留所建設にも関わりました。しかし、初めて販売したウイスキーは、特徴であるスモーキーさが焦げ臭いと不評でした。その後も試行錯誤を重ねましたが元々独立したいと思っていた政孝氏は、母親が亡くなったことを機に11年務めた寿屋を去り、余市に蒸留所を建てたのです。
当時の余市はニシン漁で栄え、リンゴや洋ナシなどの果物の栽培も盛んでした。余市リンゴは全国大博覧会で上位入賞したり、ロシアに輸入されたりと好評を博します。
政孝氏は創立時、このリンゴを使ってまずジュースを売ろうと考えましたが、100%果汁だったため、さほど売れなかったといわれています。その後、ブランデーやワインなどを売ってウイスキー成熟のときを待っていました。
ウイスキーの出荷が開始された直後に統制品になってしまいましたが、海軍監督工場となり、海軍配給用として出荷が途切れることはなかったようです。
一般向けに販売できるようになっても本物にこだわる政孝氏の想いと大衆の感覚のずれは中々なくなりませんでした。軌道に乗ったのは創業から30年余り経った頃で、本物のウイスキーを販売することができたのはその8年後です。
シングルモルト余市は創業59年後に発売されたもので、政孝氏の石炭直火による伝統的な製法が息づくウイスキーになっています。
両家に結婚を反対されたのにも関わらず結婚した政孝氏とリタ。プロポーズはスコットランドのローモンド湖畔だったといいます。
スコットランドで暮らしても構わないという政孝氏に対し、あなたのウイスキーの夢を諦めさせるわけにはいかないとリタは日本行きを決意したのです。日本語を話せない状態で知らない土地で暮らすということはどれほどの覚悟が必要だったでしょうか。
リタは周囲に日本語と和食の作り方を教えてもらいながら暮らしました。政孝氏の好きなたくあん作りでは、1年中食べられるように大量の大根を4斗樽と2斗樽に漬け込んだそうです。
結婚の約10年後、政孝氏の遠縁にあたる女性が出産の直後に亡くなったため、赤ちゃんを引き取り養女にしました。名前はリタのリと政孝のマを合わせてリマと名づけました。
その13年後には政孝氏の甥の威と養子縁組を結び、跡継ぎにします。4人が住んだ余市の家は蒸留所の敷地に移築され、蒸留所の稼働を今日も見守っています。当時のスコットランドを彷彿とさせる洋館で、基本的に土足で暮らしていたそうです。
中には和室も設えてあり、かかっている掛け軸には竹と鶴の絵が、縦の畳縁が竹の柄なら横の畳縁が鶴の柄と、ところどころに遊び心を感じる部分があります。政孝氏が毎日晩酌していたのはスーパーニッカだといわれています。政孝氏悲願の蒸留所から出た余市12年を飲むことはありませんでしたが、生きていれば感慨深いものがあったかもしれません。
リタは晩年体調を崩し、最期は自宅療養でした。ある雪の日に窓の外から賛美歌 「琥珀色の夢を見る」が聞こえてきたそうです。威氏が外に出てみると、余市教会の人たちがリタのお見舞いに来たといいます。リタは教会に通ってはいなかったようですが、洗礼を受けていた過去があり、牧師に会いたいといっていたこともあったからです。
リタが天に召された日、威氏と工場長は牧師に葬儀をお願いしに行きました。牧師はこの葬儀によってキリスト教を知ってもらえばと思っていたので葬儀の謝礼を断りましたが、竹鶴家としても払わないわけにはいきません。最終的に傷みのひどい教会堂と幼稚園を新設するのにかかる費用の一部を負担することなりました。その後、余市幼稚園はリタ幼稚園と名称を変え、現在もニッカウヰスキーと共に余市の町を支えています。
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